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延生地蔵尊とは:延生(のぶ)地蔵尊縁起

当山は古来より霊場名刹として、殊に安産・子育の地蔵尊として近県に聞えて居ります。天正十二年(一五八四年)堂塔伽藍全焼し、その折に記録も消失、開基・造立も詳かでないが、その昔何帝の御宇にか(後鳥羽・土御門・順徳の頃か)その寵愛せし后妃解任するも月に臨みて産気なく、御門の心痛一方ならず諸寺諸山の大徳安産の祈禱も空しく、ある夜夢枕に御僧立れ曰く「女人の安産は地蔵菩薩十種の大願の第一なれば、此の菩薩を信仰給わば御安産疑いなし」と消え失せたり。これ一場の夢にして翌日に至り后妃産の紐を解かれ、安々と王子誕生せられるに依って「紐解地蔵」とも称せられる。御帝は昨夜の夢の験ありしを深く感じ給い仏工運慶に勅して地蔵菩薩尊像(木造・一尺七寸半迦座像)を彫刻せしめ、此地に堂塔房宇を建立して、茲に安置し、皇城繁興を念じられて寺名を「城興寺」を号すべしと宣せられた。またこの霊地を“延びて生まれた”より「延生」と名付けられた。以来、この方、安産・子育ての地蔵菩薩として、年中女人の参詣絶えた日がないのであります。
また、後陽成天皇の御代、宇都宮城主蒲生飛弾守秀行は武威をふるい、諸寺を破却し、仏像を損失し当地地蔵菩薩をも奪い取らんとしたが、わずか一尺七寸の木像が重きこと大磐石の如く動かず、秀行は大勢の兵を集めて無理に宇都宮城に移したが、城中がにわかに振動し出したので、さすがの豪勇城主も恐れをなし、元に安置したと伝えられている。これも霊験の一端である。
地蔵信仰は、庶民の信仰として多種多様な功徳を与えて県内各地に分布して居り、それらの多くが延生地蔵の姉さんとか妹とか言われて居り、当山こそは地蔵信仰の総本山とも言うべきである。

栃木県芳賀郡芳賀町大字下延生一六四一番地
天台宗 延生山 城興寺

境内のご案内

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楼門

「安産・子育て・子授けのお地蔵様」として知られる天台宗 延生山城興寺。
【延生地蔵尊】の名で知られる同寺には季節を問わず、県内はもとより、関東一円・東北地方からもお参りの方が多数訪れる。
入り口となるこの楼門には、幕末から明治にかけて幕臣・政治家として活躍し、剣や禅、書の達人としても知られる「山岡鉄舟」書とされる『延生山』の山額が掲げられている。
門は、明治初期に”宇津救命丸”より寄進されたもの。

銅像地蔵菩薩座像 イメージ

銅像地蔵菩薩座像

楼門をくぐると正面に見えるのが、この菩薩像。「干時宝暦四戌稔十月十五小戸室将監藤原元審作之」の銘があり、芳賀町の文化財に指定されている。

地蔵堂 イメージ

地蔵堂

東大寺南大門の金剛力士像で知られる仏師「運慶」作と伝えられる木製のお地蔵様が安置されており、毎年8月24日「日の出ご開帳」として夜明けとともにご開帳され、その姿を拝むことができる。

おビンズルさま(なで仏) イメージ

おビンズルさま(なで仏)

本堂正面の縁側に鎮座する羅漢像。「なで仏」として知られ、自身の病める場所(頭・目・耳・鼻・手・足・腹など)と同じ場所をおビンズルさまに触り撫で、撫でた手で自分の患部をなでると病が良くなると言われている。

山額 イメージ

山額

楼門には、幕末から明治にかけて幕臣・政治家として活躍し、剣や禅、書の達人としても知られる「山岡鉄舟」書とされる『延生山』の山額が掲げられている。

ムクロジュの木 イメージ ムクロジュの木 イメージ

ムクロジュの木

楼門を入って右手にある樹木。ムクロジュ(無患子)は、「子が患わない」と読めることから、この木の実は”羽子板”の羽の先端に使われてきた。この羽子板の羽は、トンボを表し、昔”蚊”が子供の病気の原因と考えられていた時期に、それを食べる生き物として重宝され、それを模した羽を使った「羽子板」を毎年正月に行うことによってその年の無病息災を祈念したと言われている。
町の文化財にも指定されており、5月末から7月下旬には、この木に「アオバズク」が営巣する。

イチョウの木 イメージ

イチョウの木

地蔵堂の隣にある樹木。目通り直径4.3m、樹高20mの大木。
芳賀町指定天然記念物。

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